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中川町の沿革

誉平遺跡
 明治の開拓時代から昭和初期にかけて中川の市街地は、誉平(ポンピラ)に置かれていた。アイヌ語の「ポンピラ」に 「誉平」という漢字を当てたもので、ポン(小さい)、ピラ(崖)という意味がある。天塩川が捷水路で切り替えられる以前の、 天塩川が西に大きく蛇行した高台に当る地区がポンピラと呼ばれていた。



ポンピラには擦文時代の遺跡があり、天塩川の氾濫で埋もれていた竪穴住居跡が見つかっている。この遺跡は「ポンピ ラ遺跡」と呼ばれ、昭和51年(1976)10月に日本考古学協会によって第1次発掘調査、翌52年7月に第2次調査が行わ れ、発掘された石器や土器などの遺物は300を越える。
擦文文化は北海道を中心とする土器文化で、その開始年代は飛鳥時代 (7 世紀後半)で、終末は鎌倉時代後期の13世 紀前後とされている。
擦文式土器人(天塩アイヌ)は、主たる生業をサケ・マス漁などの河川漁労が行われていたことが知られている。鎌倉時 代後期からは土器から鉄器を用いるアイヌ文化へ移行し、蝦夷地全域に分布した。天塩川下流域一帯をウライ(漁猟 圏)としていた天塩アイヌは、圏域にコタン(集落)を形成し、協同して貝類・鮭・鱒の漁、熊・鹿・兎・狐の狩、山菜・果実・ 樹皮の採取などを行っていた。畑跡は確認されていないが、住居跡の周囲に広がった平野は畑作にも適した条件を満 たしており、河川の堆積地に遺跡が立地したのは、農耕活動の場を求めた結果とも考えられている。北海道の名付け 親と言われる松浦武四郎が、安政4年(1857)6月27日、天塩川流域調査の帰途、中川村の鬼刺辺川付近(現在の音威 子府村筬島)のアイヌコタンに宿泊した時、エカシ(長老)のアエトモから、蝦夷地で生まれた成人を「カイナ」(Ku-ainu)と 呼ぶと聞き、もともと蝦夷(えぞ=かい)とは加伊(かい)のことであると考え「北加伊道」(北のアイヌの国)にその意味を 込め命名したとされている。



開拓移民政策
 明治2年(1869)新政府は、蝦夷地を「北海道」に改め開拓使庁を設置し道内を11国86郡に区分した。
開拓使の発足当初は、旧幕府各藩の諸勢力に分領支配地を定め開拓を要請したが、遠隔・寒冷地を理由に分領支配 地を返上する藩が相次ぎ、2年間で分領支配政策は廃止されてしまう。明治7年(1874)からは、北方警備と開拓を兼任 する屯田兵制度を導入、明治8年5月、札幌郊外の琴似兵村で屯田が開始される。
また、開拓使長官の黒田清隆は、アメリカからホーレス・ケプロンを開拓使顧問として招聘したのをはじめ、多数の外国 人技術者を招いて、彼らの助言をもとに社会資本整備を進める.
 中央政府機関の開拓使は明治15年(1882)に廃止され、明治19年(1886) に内務省の地方行政機関として北海道庁が 設置される。初代長官に就任した司法大輔の岩村通俊は、開拓使のように潤沢な予算がないことから、社会資本整備 を本州の資本家に委ねる間接保護政策へ転換し、その年の暮には開拓使時代の官営工場の札幌麦酒醸造所を大倉 喜八郎に払い下げる。
さらに、明治22年(1889)には、幌内鉄道を北海道炭礦鉄道に事業譲渡。同じ年に雨竜原野5万町歩を三条実美、蜂須 賀茂韶らの華族組合に貸下げる。また、明治24年(1891)からは、屯田兵志願者の募集範囲を平民に拡大し道内への 移民を積極的に進める。
明治26年に移住希望者向けに作成した「北海道移住費概算」によると、個人・団体を問わず、開拓に要する1戸4人(大 人2人、老人、子供)の移住初年度に必要とした資金は103円15銭5厘とされている。明治26年の米の価格は、1石(10斗 =100升=180リットル=150kg=米俵2.5俵)6円60銭である。この外に移住には家族の渡航費なども必要であり、単独や 団体にかかわらず自作農として移住するためには、高額な資金を事前に用意する必要があった。



 一方、明治30年には「北海道国有未開地処分法」(農耕地の場合1人当たり150万坪、結社組織は300万坪を10年以 内に開墾したら無償で払い下げ、以後20年間免税とする。)が発布され、東北・北陸・四国の各地方から年間5万人が 移住し、明治33年(1900年)の道内人口は98万5千人に達している。この頃になると、徴兵令で道内の成人男子を徴兵 することが可能となり、屯田兵の入植は明治32年(1899)の剣淵と士別で終了し、明治37年屯田兵制度も廃止される。
都道府県別の移住者の数をみると、青森県が第1位、2位は新潟県で、それぞれ約5万戸が移住している。続いて秋田 県、石川県、富山県がいずれも約4万戸を超える。これら上位の5県からの移住者は団体より個人移住が多かった。移 住先は、石狩が20万戸、渡島、後志にそれぞれ7万5千戸余りが移住している。
北海道は、小樽港は内陸部への連絡や外国貿易の拠点、室蘭港は石炭の積み出しや製鉄業を主体とする工業の拠 点、函館港は本道と本州を結ぶ交通の拠点として、全額国費をもって整備が進められた。当時の政府にとって、緊急の 課題が、ロシアの東進政策に対する対応と、もう一つは欧米列強に対抗するため、多くの天然資源が眠る北海道を開 発し、経済的国力を高めるためであった。
その後、日清・日露戦争を経て、日本はアジアに植民地政策を展開していくことになる。これにより、北海道開拓の意義 は失われ、北海道に投入されていた資本は大陸へ移っていった。





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